MIYUKI

「ファイト、戦う君の歌を・・・」
みゆきファンじゃなくても、この歌を知っている人は多いと思います。今からだいぶ前、アルバム「予感」で発表されました。

「ファイト!」も確かに名曲なのですが、その一つ前に「金魚」という短い曲があります。

薄幸と思われる男女のカップルが金魚すくいをするんです。残念ながら金魚は一匹も掬えません。要領が悪いと女がいいます。でも2人して、それをうれしいというんです。掬えたとしても、どうせ飼えない、私たちは旅暮らしだから・・・

なんて素敵な歌でしょうか・・・生きることの悲哀、そして素晴らしさ・・・幸せを感じることって、人によってまちまちなんだと知っていても、改めて思い知らされます。寄り添いながら旅に流れて行く2人の情感、金銭的豊かさだけが幸福じゃないという人生の面白さを、金魚に例えて歌ってます。こんな生き方、したいな。





人間だれしも、慈愛に満ちた、清らかな心を備えて生まれて来ます。

成長していく中で、汚いものに触れ、人を粗略に扱い、下に見て、征服し、支配することに一種の快楽をみてしまう。

そこまで大袈裟でなくても、相手を不快にする呼び方をする、しかも周りに「聞こえよがし」な大声で・・最近の言葉で「マウントを取る」というそうです。

残念ながら、拾ってくれた会社にも、そう言う人がいます。しかも、マウントを取られた方が、ヘンな気遣いから、何も言い返さなかったことに、少しだけガッカリしました。

世界情勢規模で見たら、侵攻されても、黙って被征服民になるようなものです。

武器を持って他国へ攻め込むようなヤカラは、他人にマウントを取り、配下に置くことが、邪悪な愉悦なのです。

でも、遠い記憶をたどるようなことをしてでも、生まれ持った優しさに溢れた心を考え、思い出せば、自分のしていることが、いかに持って生まれた慈愛の心とかけ離れてしまったか、気づいて愚かだと悟るでしょう。

澄んだ月が暗闇を清かに照らすように・・・

コロナ禍や、その他もろもろの事情があって、目立った音楽を世に出していなかったみゆき・・・一時は「引退か?」なんて囁かれましたが、どうしてどうして、3年ぶりに届いたアルバムは、以前にも増して、完成度の高さを感じます。

「心月」と書いて「つき」と読ませる1曲・・・

どんな荒廃した土地であっても、優しい月光が照らすように、人が持って生まれた心がきっと、深い暗闇を照らして無くす、そのことを歌うみゆきは、相変わらずの力強い歌い方です。

暗い夜が明ける刻まで
心月よ照らせ 深く潜んで
暗い夜が明ける刻まで
心月よ照らせ 深く潜んで
暗い夜が明ける刻まで
心月よ照らせ 深く潜んで
暗い夜が明ける刻まで
心月よ照らせ 深く潜んで







会社のくだけた飲み会で、結婚の経験がないことを聞かれたことがあります。俺が経験ないことを言うと、「じゃあ、当然、子供もいないわけだね」と上席者は言います。

そこで俺は答えました。

「多分いないと思う」

質問者は大笑いしながら、「その,多分ってのは、なんなんだい」と言ってました。飲み会の場が一気に笑いで盛り上がりました。

普通の会社勤めの人は、家庭を築き、愛する人を守ってゆくために仕事を頑張ります。

自分に置き換えてみます。決して頑張らなかったわけじゃありません。ただ、家庭を持つということに縁がなかったというか、正直言って、興味がなかったのだと思います。家庭を持つことで束縛されるより、自由に行きたいという主義でした。

そうしてきて、気が付いたらこの年になっていた。それが実情です。

競走馬のように一つのゴールしか見えない、そうなっはいけない、自分に言い聞かせてきたつもりでも、見えてなかったことがたくさん、俺にはあったんだと思います。

愛より急ぐものが どこにあったのだろう
愛を後回しにして 何を急いだのだろう
甘えてはいけない 時に情けはない
手離してならぬ筈の何かを間違えるな
振り向く景色はあまりにも遠い
もいちどはじめから もしもあなたと歩き出せるなら
もいちどはじめから ただあなたに尽くしたい

海から生まれてきた それは知ってるのに
何処へ流れ着くのかを 知らなくて怯えた
生き残る歳月 ひとりで歩けるかな
生き残らない歳月 ひとりで歩けるかな
限りない愚かさ 限りない慕情
もいちどはじめから もしもあなたと歩き出せるなら
もいちどはじめから ただあなたに尽くしたい

甘えてはいけない 時に情けはない
手離してならぬ筈の何かを間違えるな



この歌、いいなぁ・・・酒を飲みながら聞くと涙が出てくる。決して悲しいのじゃなく、暖かい気持ちになれて、泣けてくる。











こんな経験をしたことがあります。

友達とツーリングに出掛け、峠道で迷ってしまいました。ようやく麓の村に辿り着いたころには日没間際でした。

とにかくお腹が空いてしまい、村に一軒しかない食堂で、親子丼を食べました。

が、さほど美味しくなく、1200円もしたのです。「これで1200円は高いなぁ」と思いました。

店主がジロジロ見るのも、なんか嫌でした。でも、村で飲食店はそこだけ、文句も言わずに食べるしかありませんでした。



最近、異様な物価高ですよね。皆さん、どうしていますか?

先日、コンビニで4コに切れている玉子焼きが220円したのにはビックリしました。

玉子を買って、自分で「だし巻き卵」を巻くか、3コで108円の「温泉玉子」を食べるか、にしています。

できる工夫はしないと、食費がかさんでしまいます。

2コで98円だった「野菜コロッケ」も、アンガスビーフ入りになり、158円に跳ね上がりました。

安い素材のコロッケはもう、扱わないということなのでしょう。

俺的には、小腹が空いた時や、すぐにビールが飲みたい時など、アンガスビーフなど入っていなくても、「野菜コロッケ」の安さが魅力だったので、辛い限りです。

でも、食べないわけにはいかないので、高い食材でも我慢して買っています。

その分、どこかに「ひずみ」が来ているのでしょうね。



似たようなケースに仕事があります。

嫌というわけではないのですが、毎日毎日同じことばかりで、「単調だな」とか、「今日、転んだことにしてズル休みしちゃおかな」なんて、考えてしまいます。結局行きますけど。

障害者であり、出したり仕舞ったりができない書類もある俺、単調であっても、仕事が与えられるだけ恵まれていると思わなければいけませんね。

麓の村の親子丼みたいです。

君が今頃泣いてるんじゃないかと思ったんだ
ひとりだけで泣いてるんじゃないかと思ったんだ
どんなにひどい1日の終わりでも
笑って帰って行った君だから
夜中にひとりで泣いてるんじゃないかと思ったんだ

君をかばう勇気も なぐさめも
何ひとつ浮かばず 見送った
己れのなさけなさに さいなまれて
君に何か渡してあげたくて
何かないか何かないか 探し回ったんだ

夜中の屋根で猫は跳ぶ 呼んで跳ぶ 泣いて跳ぶ
夜中の屋根で猫は跳ぶ 呼んで跳ぶ 泣いて跳ぶ
君に贈ってあげたいから
お月さまほしい

夜中の屋根で猫は跳ぶ 呼んで跳ぶ 泣いて跳ぶ
君に贈ってあげたいから
お月さまほしい







日本語の美しい言い回しを随所にちりばめて、情感あふれる一編の詩のような世界を表現する・・・キレイな言葉遣いに、ハッとさせられる・・・

みゆきが描く世界にはそんなことがしばしばあります。

もう昔になりますが、みゆきの語彙力が政府の偉いさんの目に留まり、「国語審議委員」を務めたことがありました。(ちなみに俺も国語の教師の資格を持っています)



最近、その情景描写の美しさに驚かされ、強い感動を覚えたのが、「終り初物」という曲です。

スマホや携帯はもちろんのこと、パソコンやインターネットもなかった時代の淡い悲恋・・・

こういう儚い恋を通じて、人は成長していくのでしょうという爽やかな別れ・・・それが情感たっぷりに描かれているのです。

一冊の詩集を借りて読む、思いを託すのに手袋を書く、人をきちんと信用して荷物を預ける



そんなことが普通だった時代の叶わぬ恋・・・

一冊の本を仲間内で回し読みする、渡すものを包みに入れて人に預ける・・・そんなこと、今や無いですね。

それができた時代の情景が美しい言い回しで表現されます。

みゆき姉さんの語彙力に改めて感動しながら、「終り初物」を聞いています。

春の到来を感じさせる「タケノコ」の煮物を、初夏にビールとともに味わいながら。




こんな言葉を 今どきわかる人がいるかしら
言葉は変わる 暮らしは変わる 今では 何んて言うかしら
あなたに届けたくて 今日のうち届けたくて
急いだ理由(わけ)を手紙に書いて 預けてゆくから 読んでね
終り初物 季節見送り
手に入ったから おすそわけ
終り初物 明日にはもう
どこにもないから おすそわけ
過ぎゆく季節 嘆くより 祝って送るために

ひとり娘のあの子が 遠い国へゆくらしい
いろんな理由(わけ)がそれぞれあって 掛けうる言葉が足りない
見送りにはゆきません 仕事を続けています
預けておいた包みの中に 借りてた詩集も入れました
終り初物 季節見送り
手に入ったから おすそわけ
終り初物 明日にはもう
会えなくなるから おすそわけ
過ぎゆく季節 嘆くより 祝って送るために







最近の「お笑いタレント」って、イケメンが多いですね。「吉本男前ランキング」なんて順位が存在するくらいですから。

その中でも、男の目から見ても「カッコいいなぁ」と思えるタレントをテレビを通じて知り、好感を持っています。

男前だから好感を持っている、とかじゃなく、その若者の生き方に心くすぐられる寂寥感を感じるのです。チャラいキャラの裏に、真剣に物事に向き合う姿勢が読み取れて、ステージを降りたなら、まじめな努力家で「いい奴」に違いないと、俺には思えてならないのです。

札幌に生まれ育った彼は、極貧の中で成長していったと聞きます。

食べることにさえ困るなか、ティッシュにマヨネーズをかけて食べたといいます。

妹を進学させるため、発覚すれば罪に問われるとわかっていても、援助交際を斡旋する仕事の片棒を担いだそうです。

そこまでしなければならない貧困を、平成生まれの若者が経験しているなんて・・・ささやかな驚きとともに、「そうすることを選んだ」、「そうするしかなかった」そのタレントさんの「家族愛」に惹かれます。

芸能人として成功してから、口さがない週刊誌が、彼に前科があることを書きたてました。営利目的で他人の古傷を利用したのです。

でもです。そこにあったのは極貧から這い上がるためには、手段を選んでいられないという彼の焦燥感と、不屈な「強さ」だったのではないでしょうか・・・

「そうするしかなかった」と、タレントが叫んでも、週刊誌の記事では、彼が売春の斡旋をしたという事実だけが一人歩きします。

俺は、この男前芸人に関心を持ち、彼の生い立ちを知り、家族愛から前科者になったことを推察する時、中島みゆきが5回目の「夜会」で、みゆき扮する「時間泥棒」が言ったセリフが思い出されるのです。

   正確ナ伝説ハ ソノ本人ニ口出シサセテハナリマセン

   正確ナ伝説ハ 他人ガ記サナケレバナリマセン

いくらタレントさんが「こんな生き方をしてきた」とあがいても、定義のように決められてしまうのです。

それでも抜群の高感度で人気を誇る彼に、さわやかな苦みを見てしまうのは、俺がそのタレントさんと同じく極貧の家に育ち、這い上がったからでしょうね。

風に綴るしかなかった手紙
あなただけは読んで
雪で作るしかなかった形見
あなただけは抱いて
記された文だけが この世に残っていく
形ある物だけが すべてを語って行く
叫べども あがけども それを誰が知るだろう
誰も 誰も 誰も







今の若い人には、分からないだろうけど、昭和の終わりごろ、何の罪もない一般の旅客が搭乗した大韓航空機が、爆弾を仕掛けられ、空中で爆破され、多数の死者が出るというショッキングな事件がありました。

犯行に及んだのは北朝鮮の女工作員、日本人に成りすますための日本の旅券も偽造して所持していました。

女性工作員は逮捕され、ソウルに移管されたのですが、空港でタラップを降りて来る際の光景を今でも覚えています。

同性の捜査官2人に両脇を抱えられ、口には自殺防止用のマウスピースが嵌められていました。

この工作員の供述で北朝鮮の手口が明らかになり、女性工作員には死刑の判決が出ました。

「北朝鮮の洗脳を受け、国外の事情を知らない」という特殊な背景が考慮され、特赦が与えられ、ソウルで韓国人として、平穏に暮らしています。

その女性工作員が日本の拉致被害者を扱った報道番組に出演した際、工作員になるために教え込まれた流暢な日本語で、インタビューに答えていました。

彼女が物心付いたころから北朝鮮で教えられたのは、

「南側で暮らす同胞は、アメリカ人の奴隷のように生き、アメリカ人の食べ残しをすするしか食べ物はないのだ。我々北で暮らす人間がやることは、同胞を救済することなのだ」

ところが逮捕され、警察車両でソウルの街を走り、女性工作員が目にした目にした光景は・・・

町は豊富な物資で溢れ、行き交う若者は皆、笑っている。

その光景を見た時

「自分は間違った教育を受けて来て、取り返しのつかない罪を犯してしまった」

と思ったそうです。



北朝鮮に限らず、凝り固まった思想を持っていて、偏った考えの教育をする国ってありますね。

独裁者だって、まだいます。

そうした実情を、しいてはそうした国との交わりを、子供に教えるのって、難しい。

美しい物語 読み聞かせていた
良い夢を見なさいと 寝かしつけていた
おはなしのお終いは どれも必ず
報われた幸せで 満ちあふれていた
目を醒まして見るのは 片付かない結末
どうして 善い人が まだ泣いているの
童話は童話 世界は世界
子供たちに何んと言えばいいのだろうか





西荻窪に住んで、かれこれ20年になります。

その間、変わっていった町並みもあります。銭湯がマンションになったり、質屋が駐輪場になって、その後、コンビニになったり。

山本益弘が絶賛した坂本屋のカツ丼、俺の母も「本当に旨い」と、その味わいを愛好していましたが、その坂本屋も店主が年を取ってしまい、跡を取る人とてなく、惜しまれながらも閉店してしまい、間際には、「最後に食べておこう」という人たちが連日、長蛇の列をなして、並んで食べ、満足感を得ていました。

事実、味がかなりの水準に達し、それをきちんと守り、流されることのない店は、俺が西荻窪に来た時、「あった」し、いまでも「あります」です。



西荻窪に住んで20年、最近はよく母のことを思い出します。

「生きていてくれたらなぁ」

そんな感じです。

俺が阿佐ヶ谷ジムでトレして、汗を流して帰ってくると、ビールが冷えていて、季節に合った酒肴が用意されている・・・その手合をもう一度経験したいのです。

母が亡くなってしまったいま、叶わぬ望みであることはわかっていますが、充実したひとときでした。俺の利き酒能力と、母の酒肴で店がやりたいと、本気で思っていましたから。

その母も亡くなって10年以上が過ぎました。第二の母と慕っていた当マンションの管理人の奥さんも2年前にガンで、あっけなく亡くなってしまいました。寂しいものです。

でもです。店や顔ぶれは変わっても、街の雰囲気は変わらないです。

隣の吉祥寺ほどの「都会的キャピキャピ感」がない分、こじんまりしていて、古本屋とカフェが合体した店などあり、情報発信源となっているのです。

エスニック系の料理屋など多く、いい穴場だそうです。

いつも渡る川には、鴨が泳いでいるのも同じ光景です。

「故郷として骨を埋めたい。だから、面影を変えないで」

と願うばかりです。

心許無く見るものは 野の花僅か草の花
それでも何も無いならば
絵描(か)きの描く花よ咲け 絵描(か)きの描く花よ咲け
心許無く聴くものは 野の鳥僅か草の鳥
それでも何も無いならば
母御(ははご)の唄う歌よ咲け 母御(ははご)の唄う歌よ咲け
永遠(とわ)に在れ山よ 永遠(とわ)に在れ河よ
人は永遠に在らねど 咲き遺(のこ)れよ心

心許無く鶺鴒(せきれい)の ゆく空帰る空を見る
それでも泣けてくるならば
涙の水たまりを見る 涙に映る空を見る
心許無く鶺鴒(せきれい)の 呼ぶ声返す声を聴く
それでも泣けてくるならば
子を呼ぶ人の声を聴 人呼ぶ人の声を聴く
永遠に在れ空よ 永遠に在れ国よ
人は永遠に在らねど 咲き継がれよ心

永遠に在れ空よ 永遠に在れ国よ
人は永遠に在らねど 咲き継がれよ心

心許無く鶺鴒(せきれい)の
心許無く鶺鴒(せきれい)の

↑ 地元の、好きな路地です。





敢えて「ご当地ソング」じゃなくても、ある特定の場所で、その歌を聞くと、妙にマッチして、心が疼くような情感に飲み込まれることって、ありますよね。

横浜港の、観光名所ではない、うらぶれた港の倉庫街で、みゆきの「波の上」という曲を聴くと、不思議と泣けてきます。



何から何まで昨日を 忘れてみても
胸の中に残る おまえの熱い声
昨日の酒を今日の酒で 流してみても
砂漠の雨のように
おまえに乾いてる
遠いエデン行きの貨物船が出る
帰り損ねたカモメが堕ちる
手も届かない 波の上

凝りもせずにあしたになれば 誰かに惚れて
昨日を潜り抜けた 顔つきになれるだろう
でも今夜は 少し今夜は イカレたハート
そばにいてくれるのは 優しすぎるTanqueray















20年ぶりに会う友達が訪ねて来てくれました。

25歳・・少し跳ねていた感じの彼も45歳になり、某大手企業の部長をなさると言います。

25歳だった当時、俺の手料理で日本酒を飲んでみたいと言われ、「ああ、いいよいいよ」と快諾して、日本酒初心者には「美味しい、いい酒」から入門させる主義の俺は、「風の森」という奈良県の美酒と海鮮鍋を振る舞いました。

それがよほど気に入ったのでしょう、当時、全盛を誇っていたMixiに書きまくっていました。

それから何回か、手料理を作って、お気に入りの日本酒を紹介しました。

その彼、突然、ある外国へ渡航するというのです。

決して後進国ではないのですが、マフィアが暗躍する、あまり治安がいいとは言えない国でした。

そこへ単身渡って、何かを掴むための「武者修行」をするというのです。

「若いうちは、なにごともトライだ」といいながらも、彼が行く国に一抹の不安もありました。

そうして、渡航前に会った時、「風の森」を酌み交わしながら、「連絡くれよな」と言いました。

しかし、日本を離れた彼から、連絡が来ることはありませんでした。



そうしているうちに、彼の住む国の隣にある大国にヘンな大統領が誕生し、彼の国から自国へと、大量の移民が流入しているから、「国境に壁を作る」なんて言い出したのです。

そのニュースに触れ、「どうしているかな?」とか、

「治安が悪化してなきゃいいがな・・・」なんて、案じていました。



そうして20年の月日が流れて・・・このホームページから連絡が来た時は仰天いたしました。

20年ぶりの再会です。

遠い異郷で働いて、働いて、働いて、昇って行ったそうです。

治安の悪化が懸念されながらも、大した怖い目に遭うこともなく、英語とスペイン語の両方を完璧にマスターして、現地の人を使い、製品の部品を作って日本に送るラインの工場長を長く務め、その働きが認められ、コロナ禍の終息とともに日本に召喚され、日本での今の地位と暮らしがあるといいます。



訪れてくれた彼は、有名店の洋菓子の詰め合わせを持ってきてくれました。

そのことにビジネスマンとしての確かな成長が分かります。

久しぶりに「風の森」で一献やりました。

「相変わらず美味しい」という彼は、酔ってしどけなくなりました。20年前の「ヤンチャさ」が垣間見えて、懐かしかったです。

俺の心配も取り越し苦労で、異国で働きぬき、何かを掴んで、成長して、俺の事、覚えていてくれて訪ねてくれたこと、唯うれしくて・・・

しかも立派なビジネスマンになって現れたことが、誇らしくて・・・

銀河秋を告げ冬を待ち春を迎えて
旅人は忘れ草に絡めとられ 宵待草は萱原に埋もれても
  逢おうが為の約束ならば 逢うを待つ間に恋死に死んでなどなるものか
たどり着き得ぬ人への想いを 試し眺めて歌詠むような女に人待ちを名乗られたくはない
 必ずと疑わぬ目に時など移る隙があろうや
  必ずと疑わぬ耳に時など響く隙があろうや

荒野を越えて 銀河を越えて 戦さを越えて
必ず会おう
来る 来ない 待つ 待たない
会う 会わない
会う



ヒデちゃん版「雨月物語・浅茅ヶ宿」です。





働き方改革が叫ばれていますよね、昨今。

俺を拾ってくれた会社でも、休みを無理なく取って、仕事以外の時間も有意義に使うように「時間のやりくり」を奨励しております。



俺の場合、独り身なので、土日は掃除,洗濯など、家事があります。

そこで、「疲れているなぁ」と感じる時や、のんびり癒されたい時など、平日に有休をいただくことにしております。

平日、ゆっくりとジムなど致し、おさんどんはしないで、早い時間から飲酒する快感を最近、知ってしまいました。

落ちてゆく太陽など眺めながら、のんびりとビールを飲むと、とてもくつろげます。

太陽はゆっくりと沈んでも、またつぎの日にゆっくりと昇ってくる。

一旦落ちても、必ず復活してくる

ゆっくりと ゆっくりと・・・

何かに慌てるように、ゆとりがなく、あくせくする日が続き、ふっと落ち着きたい時に、こんな過ごし方、好きです。



1日を36時間と決めたんです
他人様の進み方は知りません
お陽様が昇って次に昇るのが1日じゃなく
次が昇るのを見届けて 沈むまでが1日
できることがまだ間に合う し残したことがまだ間に合う
ゆっくりゆっくり悲しみは癒えるだろう
大切に大切に愛する人と歩くだろう
おそるおそる人は変わって行けるだろう
追いつめられた心たちよ 36時間に来ませんか
追いつめられた心たちよ 36時間に来ませんか







友達とウチで夕ご飯を食べながら、クイズ番組を見ていました。

最後の問題が高得点で、順位が入れ替わり、優勝の行方も左右するという重要な問題でした。

中島みゆきの「糸」という名曲がありますよね。それを1番から4番まで、4人の女性が歌っているのです。果たして何番が本物の中島みゆきか、当てるという問題なんです。

一緒に見ていた友達は「ヒデちゃんなら、絶対に当たるよね」と言います。

俺は食事の箸を止め、真剣に聞きます。

そして、2番目の女性が歌う「糸」を聞いた時、「これがみゆきさんだよ」と、友達に答えました。3番目、4番目の人の歌を聞かなくても、2番がみゆき姉さんだと自信をもってわかりました。

案の定、2番が本物の中島みゆきの歌唱でした。

友達は「スゲー」と驚嘆します。

「当た棒よ、ファンのキャリアが違うぜ」と俺は笑いました。



なぜ巡り合うのかを 私たちはなにも知らない
いつ巡り合うのかを 私たちはいつも知らない
どこにいたの 生きてきたの
遠い空の下 ふたつの物語
楯の糸はあなた
横の糸は私
織りなす布はいつか誰かを
暖めうるかもしれない







昔の俺は、パソコンは、一応使っておりましたが、メールをする、ネットを見る、程度で、パソコンの持つ限りない利便性など、全く認識しておりませんでした。

それどころか、入力も、右手中指一本で「かな変換」しておりました。

弟をはじめ、周りの友達から、「今のうちにローマ字返還で、しかも両手で打てるように練習した方がいいよ。これから、パソコンのスキルはとても重要だから」という助言にも耳を貸しませんでした。

水商売から足を洗い、事務仕事に就いて、どうしてもパソコンは必須アイテムになりました。

そうして、やってるうちに面白くなり・・・ついにはwebの事にも手を付けました。

「助言に耳を貸さなかった頃」の友達と、先日、飲みました。

その友達はこのホームページを見て、そして俺がタッチタイピングでキーボードを打つのを見て「えーっ」ってひどく驚いていました。

中島みゆきの「ミルク32」という歌のようだといいます。



アンタときたら かな変換なんかしててさ
アタシ随分笑ったわね
いつの間に Dreamweaverなんて
使うようになったのよ







俺がはじめて中島みゆきのコンサートに行ったのは、俺が高校1年の春休み、もうすぐ2年という時でした。場所は小さな小さなホール。当時暮らしていた町から同じクラスのガールフレンドと電車に乗って行きました。

その頃、みゆき姉は5枚目のアルバム「親愛なる者へ」を出したばかりでした。

すべての曲をみゆきがギターを弾いて歌っていました。もちろん、小規模なバックバンドもいましたが。

一曲目が、「親愛なる者へ」に収録されている「小石のように」でした。だから、長いみゆき歴のなかで、俺が最初に生で聞いた曲ということになります。

安っぽい和服を着くずした感じで着てるのが、当時のいつものコンサートでのスタイルでした。江戸時代の遊女を意識したステージ衣装でした。

途中で着替えて、黒を基調としたシースルーのボディスーツのような格好になりました。本人は「サンマを獲る網でできている」と言っておりました。

さだまさしや松山千春の話をして、「きゃつら、わかめスープを欠かさず飲んでも頭髪の状態は悪い方に進行している」なんて言って、観客を大笑いさせました。

ラストが「世情」という曲で男性コーラスとともにあの有名な「シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく」という歌詞をみゆきが高らかに歌ったのを覚えています。目にも鮮やかなオレンジ色のドレスを着ていました。

初めてのみゆきの歌を生で聞き、動いているみゆきを生で見て、感動しました。

町に帰ってきて、駅前のお好み焼き屋でご飯を食べました。みゆきのコンサートもはじめてでしたが、異性と店に入り、食事をするというのもはじめてでした。大人になったような気がしました。

それから、何度もみゆきのコンサートには感動を貰い、あの素晴らしい演出の「夜会」には魂を抜かれました。

みゆきのコンサートに行くと、いいことが起きます。というのは、時が流れ、みゆきの「縁会」というコンサートに行ったんです。場所は有楽町の東京フォーラム。最初にコンサートを見た小さなホールとはスケールが違います。「ビッグになったなぁ」そう感じました。

その翌日、小さな小さな俺を拾ってくれた今の会社から、採用の返事が来ました。








旅に出るのが好きです。

土地ごとの美味しい酒を飲んで、美味しいものを食べて、感銘を受ける、最高です。

この病気を宣告されてからも、いろいろなエリアにお邪魔して、旅情にほだされてきました。

行政を思い切りアテにして、生活を保障してもらい、制約を受けながら、法外に高価な、それでいて「効かない」薬をありがたがって飲む・・・そんな暮らし向きよりも、転ぶことを恐れずに(ただ、防御はしますよ・笑)できる限り自力で生きて、歩き回る。快活に、ジョイフルに、そして前向きに・・・そうした行動様式の方が、はるかに病気の進行を食い止める効果があると信じています。

そうした姿勢に賛同してくれて、旅へといざなってくれた人も、かなりおりました。

北山村、札幌、金沢、そして今回の山陰。旅に出ると、いいことがたくさんあります。

よく歩くこと。

これはいいリハビリになります。

旅情や、旅先で出会う人の優しさに包まれて、懐かしいような、泣けてくるような、何とも甘酸っぱい気持ちになります。

旅に出るまでのワクワク感、予定通りに旅ができて、予定通りに終わっていく満足感、旅先でよくしてもらった人と別れ行く寂寥感。

そうして、心が洗われていく。

それが俺にはどんな薬を飲むよりも、最高に効果があるのです。

ウチにいるのではなく、外に居たい。そうして、この病気が完治する夢が叶う日を待ちたい。

だから旅をするのです。



行く先を照らすのは
まだ咲かぬ 見果てぬ夢
はるか後ろを照らすのは
あどけない夢
ヘッドライトテールライト 旅はまだ終わらない
ヘッドライトテールライト 旅はまだ終わらない







真夏に雪を見る・・・

「前からヘンだと思っていたが、ついにヒデちゃん、いっちゃったか・・・」

と言われそうですが、夏の暑い盛りに、雪景色を思い浮かべてしまいます。幻想というか、連想です。



母の命日は7月、父の命日は8月・・・両親とも亡くなった日は忘れられないくらい暑い日でした。我が家の夏は、仏教色に染まります。

父が亡くなった時、俺はまだ10代でした。息子の成人した姿も見ることなく、随分と早い旅立ちでした。

父の命日が近づくと、俺は一片の写真を思い出すのです。

近所の庭先で届け物を抱えた父、都心では珍しいくらいの豪雪の中、父の背後にある木が、積もった雪の重みで、折れるほどにしなっています。

今の住居に移転する時に、荷物を整理して、失くしてしまったのでしょう、この写真はどこを探しても出てきません。

ただ、俺の目にははっきりと焼き付いております。積もった雪の中、荷物を抱えている父、寒いはずなのに笑っている。

夏の終わりに差し掛かったころ、父の命日が近づくと、俺には雪が見えるのです。

お父さん、家族のために働いてくれてありがとう。



手をさしのべれば いつも
そこにいてくれたひとが
手をさしのべても 消える
まるで淡すぎる雪のようです
あの人が教える通り 歩いてく筈だった私は
雪で足跡が見えない
立ちすくむあなたを呼びながら

雪 気が付けばいつしか
何故 こんな夜に降るの
今 あの人の命が
永い別れ 私に告げました







なんでもあるような気がして、都会に来る。

どんな刺激でも体感できる錯覚に陥り、都会で模索する。

ネットの時代、誘惑は溢れ、快楽が簡単に手に入るような「おだて文句」が飛び交う。

そうして,騙され、すさび、一時の蜃気楼を見ていたことに気が付く若者。

大切なものを都会という名の不毛地帯で失くしかけたことに気づいて慌てている。

大切にしなければならなかった面影を郷里に残してきてしまった・・・



そんな青年の人生に「ほんの少しだけ」クロスしました。

「夢の実現への道は、都会じゃなく、君を育んだ郷里にこそ、あるんじゃないのかい」

お酒を飲みながら、俺が言うと、彼はボロボロと泣いていました。「スーツをカチッと着て仕事するのはカッコいい」なんて、ヘンな「かぶれ」症状があった青年は、どんな服装でも、どんな仕事でも、一生懸命取り組むことがカッコいいのだと、気づいてくれました。

俺はこの青年に、ツイッターで知り合いました。彼の方から俺をフォローしてきたのです。

片田舎から都会に来て、友達を得るツールとして、ツイッターを選んだようです。

「ツイッターなんて、99%が虚勢の張り合いじゃないか・・・本当の付き合いなんて、そうそうできるものじゃない」

と、俺はツイッターを止める時に、彼に言いました。

「バッカじゃねーの」と叱りました。

そうした中にも俺は、彼の中に純朴な優しさがあることに気づいておりました。

それは彼がファミリーワゴンにこだわって乗る理由です。

彼は自分の努力で家族が欲しいのです。

彼の両親が出会い、愛し、家庭を築いたように、彼も誰かとそうしたいのです。

そうして家族を乗せてファミリーカーで出かけたいのです。

その話を聞いた時、今度は俺がボロボロ泣きました。夢を応援してあげようと思いました。

いま、仕事頑張っている青年、ファミリーカーに家族を乗せる日がやがて来るように思います。



ふいに聞いた 噂によれば
町はそろそろ 春のようです
君のいない 広い荒野は
いつもいまでも 冬というのに
君の町は晴れていますか
花の種は育ちましたか
僕はここで生きてゆきます 未練な手紙になりました

忘れな草 もう一度ふるえてよ
あの人の思い出を抱きしめて
忘れな草 もう一度ふるえてよ
あの人の夢に届け









京都大学が、iPS細胞を使って、神経細胞を再生する治験を今年度中に行うことが発表になり、2~3年以内に、保険適用で、「再生医療科」ができ、広く難病や、治療困難とされてきた損傷が治る公算が高くなったことは歓喜の極みです。

昨日、食事を共にした友達から、「障害が治ったら、何したい?」と聞かれました。

この友達とは、障害を得る以前、よくツーリングに出かけました。

俺が、「もう一度、バイクに乗りたい」というと、

友達は優しく頷いて「うん、うん、その時はまた一緒に走ろうぜ」とほほ笑みかけてくれました。



俺のナナハンで行けるのは
街でも 海でも どこでも
ねえアンタ 乗せてやろうか
どこまでも どこまでも どこまでも どこまでも

狼になりたい 狼になりたい ただ一度
狼になりたい 狼になりたい ただ一度









難病を宣告されてから、それなりの苦労もありましたが、泣かずに「どうやって生きてゆこうか」を前向きに考えてきました。

「いつか、そう遠くない日、治る日が来る」そう信じることが俺の「張り合い」だったし、今でも頑張れる原動力です。

そんな俺ですが、一度だけ大泣きしたことがあります。

それは、辛くて泣いたのではなく、嬉しくて泣いたのです。

なかなか障害者に認定してもらえない、かと言って一般求人では難しいという状況のなか、自活の継続を切望し、パソコンのスクールに通っていた俺に、区の福祉事務所の担当さんが、こういってくれました。

「どうやったら行政を利用して、楽に暮らせるかを考える人が多いなか、貴方は、どうやったら行政を当てにしないで済むか、を考えてる」

そういって、褒められたことが嬉しくて、嬉しくて・・・

「公務員にも、こんな人がいるんだ」そう思うと、泣けました。

あなたは杖をついて ゆっくりと歩いてきた
見てはいけないようで 私の視線はたじろいだ
あなたはとても遅く 身体を運んでいた
まわりの人はみんな いたわりの手を差し伸べた
鷹と呼ばれていた人が 這うように命を運ぶ
「見なさい」 あなたの目が
「見なさい」 私を見た
「怖れるなかれ 生きることを」
鷹の目が 見つめてきた

世界は変わって行く あなたはいつもそれの
変えてはならないことを 強く叫び続けてきた
世界は変わって行く あなたを嘲笑いながら
私はあなたの歌を 痛々しく聴き返す
灰色の翼は痩せて かすれた鳴き声をあげて
「見なさい」 あなたの目が
「見なさい」 私を見た
「命を超えて続くものを」
鷹の目が 叫んでいた

あなたは停まりもせず そのまま歩いてゆく
面倒な道ばかりを 敢えて歩き続けてゆく
私は自分を恥じる あなたを思って恥じる
ラクな道へ流れくだる 自分の安さを恥じる
鷹と呼ばれていた人が 這うように命を運ぶ
「見なさい」 あなたの目が
「見なさい」 私を見た
「怖れるなかれ 生きることを」
鷹の目が 見つめてきた

「見なさい」 あなたの目が
「見なさい」 私を見た
「怖れるなかれ 生きることを」
鷹の目が 見つめてきた









みゆきさんは、自身の作品の解釈をしないことで有名ですよね。

以前、ラジオに出演して、「夜明けを待って 一番電車」という「悪女」の一節について、

「何線なんですか?」

と問われた時、おちゃらけた声色で、

「秋田新幹線こまち」

なんて答えておりました。

質問者が「悪女が発表になった時、まだ秋田新幹線なんか、ないじゃないですか」と笑うと、

それ以上の大笑いをして、話をはぐらかしていました。

作品の解釈をしないのは、受け取る我々のその場の心情に沿って、どのように聞いて頂いてもいい、という彼女のプロ意識ですね。

我々聞き手は、自身の心情に即して、みゆきの曲を「受け取る」ことができるのです。

嘘をつきなさい 物を盗りなさい
悪人になり
傷を付けなさい 春を売りなさい
悪人になり
救いなど待つよりも 罪は軽い



有名な「愛よりも」の歌詞の一部ですね。

俺はこの歌詞はすごく強いと思います。

誰かに助けて貰おう=救い

この図式に頼ることなく、カラダが不自由であっても「どうやったら自分でできるか?」を考えることが大切だと、解釈させられます。

「杖がないと歩けない」とか、「靴の紐がうまく結べない」という俺の「方便」を真に受けて、障害者手帳を申請してくれたお医者さん元気かな?









人工知能、ゲノム解析など、人体に関わる先端技術は、ここ数年、すごく進化しています。

カズ・レーザーが最先端人間工学にアプローチする番組を毎回見ていますが、人間って、思う通りに「設計」できてしまうのではないか、と思ってしまいます。

産まれた時点で、その子が罹りうる疾患を、予見できてしまう・・・

「あしたが見えないからこそ、生きることは楽しい」

と、ポジティブシンキングな俺は、将来が見えることには悲観的ですが、そうした、信じられないような人間工学や先端医療が平和裡に使われて、今まで治療法が無いと言われていた疾患や障害が完治する日が来ることを、切に願っています。

俺は今年(2023年)の9月に61歳になりますが、「まだ61歳」と考えたいです。

凄い速さで医療が進歩して、この難病がケロッと治ることだって、十分あり得る。

いつそうなってもいいように、カラダだけは鍛え続けようというのが、自宅をジム化した動機です。

不幸にして、俺が生きているこの間に、完治に至らないとしても、障害があっても、ポジティブな姿勢で日々を楽しむこと、伝わって欲しいです。

「前向きに生きる素晴らしさ、伝われ!」

です。

いつの日か、不治の病なんて、無くなりますよ。

この一生だけでは たどり着けないとしても
命のバトン掴んで
願いを引き継いでゆけ









このサイトの事が、友の会の会報に載ってから、同じ病気で苦しむ何人かの人からメールをいただきました。「感動した」「元気が出た」という内容に、俺自身も大きな元気をもらいました。

最近、思うことがあります。もしもこの病気に罹ってなかったら、その方が幸せだったことは間違いありません。

でも、です。現在のような会社で働くこともなかったでしょう。webの勉強をして、下手ながらも自分で1からサイトを作る知識や技術を必死で習得することもなかったと思います。もちろん、難病を抱えながら生活を安定させることができたのは、運が良かっただけで、自分で特別な何かをしたわけではないと思っています。生活が落ち着いた、web制作という張り合いもできた。病気に罹ってしまったことは残念ですが、俺、さほど不幸だとは思っていません。思いたくありません。難病に罹った、でも自力で社会生活を送る術を得て、行政に頼ることなく暮らしている。

ここまで来て、さらに欲深く願うことは一つ、それは近い将来、この病気が治る日が来ることです。オイラに限らず、この病気の人、さらには治らない病気に罹っている人すべての願いであるはずです。いつか、赦されて、きれいに歩くことができて、流暢に話しをすることができたら、その時は泣いて、それから笑うと思います。その時を想像すると、夜会「今晩屋」でみゆきが満面の笑顔でスタッフ全員と力強く歌ったあの歌が思い出されます。



赦され河、渡れ 赦され河、渡れ 赦され河、渡れ 赦され河、渡れ
赦され河、渡れ 赦され河、渡れ 赦され河、渡れ 赦され河、渡れ

もう十分に泣きました もう十分に散りました
思い上がってはいけません 人ほど弱いものはない
ここまで来たら できることは一つ

赦され河、渡れ 赦され河、渡れ 赦され河、渡れ 赦され河、渡れ

もう十分に泣きました もう十分に散りました

過去はぬぐっても消えません 一足先は闇の中

裁く力も 赦す力もない

赦され河、渡れ 赦され河、渡れ 赦され河、渡れ 赦され河、渡れ・・・





とても大切に思っている曲があります。
7回目の夜会でみゆき演じる 上田莉花 が、遠い異国で日本に帰る術をなくして途方に暮れ、泣きます。コレクトコールで日本の勤め先に送金を頼もうとするのですが、そのコレクトコールさえ、NOを言われます。ただ、心細さの中で、不思議と強い気持ちが彼女の心に湧いてきます。どうしていいか分からなくなって、泣いた後って、意外と強くなれるのではないでしょうか・・・

遥かな山から 吹き付ける風に
ひれ伏しながら けして折れはせぬ
押し寄せる雲から 打ち止まぬ雨に
ひれ伏しながら けして折れはせぬ
私がなりたいものはといえば
地下に根を張る あの竹林